ミュージックワイヤのお話国産ミュージックワイヤ開発

国産ミュージックワイヤ開発

日本における国産ミュージックワイヤは、日本楽器製造株式会社(現 ヤマハ株式会社)と鈴木金属工業株式会社(現日鉄SGワイヤ株式会社)の協力により1950年(昭和25年)に実現しました。

日本楽器・河合楽器ともに戦時中は、航空機のプロペラを製造するなどしていましたが、浜松地区の空襲により工場を焼失、大きな痛手を受けました。また、ピアノ線を初めて国産化した鈴木金属工業株式会社(現日鉄SGワイヤ株式会社)は、戦後、軍需物質であったピアノ線の需要が皆無に近く、戦後不況のなか、従業員を47名までに削減して何とか耐えていました。しかし、日本楽器の立ち直りは急速でした。当時の産業界の中では異例の速さで、1947年にはピアノの製造を再開し、1950年にはフルコンサートグランド・ピアノを完成しています。このような急速な回復には、この年社長に就任する川上源一(当時専務)の手腕が大きかったといわれています。

一方、鈴木金属工業株式会社(現日鉄SGワイヤ株式会社)は苦しみつつも何とかピアノ線の製造を続けていましたが、1949年(昭和24年)、ギター弦用ピアノ線の取り引きを始めた浜松の相沢工業(現在の株式会社イトーシンミュージック)を通じて、ミュージックワイヤという高級なピアノ線が存在し、まだ、国産化出来ていないこと、日本楽器が将来に向けて優れた国産のミュージックワイヤを欲していることを知ります。鈴木金属工業株式会社(現日鉄SGワイヤ株式会社)社長の村山祐太郎は、すぐさま日本楽器を訪問し、川上嘉一社長、相佐専務、窪野購買課長らと面会して開発を申し出て、了解を取りつけます。こうしてミュージックワイヤの国産化が始まるのですが、日本楽器自身もこの頃から研究は始めており、日鉄SGワイヤに有益な情報を提供していただきました。その年、第1号試作品が完成し納入されます。評価結果は合格で、より量の多い第2号試作品が要求され、試作に入りましたが、今度はうまくいかず大苦戦におちいりました。

そんな1950年(昭和25年)の秋、日本楽器では大騒動が起きました。夏に発表した先のフルコンサートグランド・ピアノCF型が評論家に酷評されたのです。「・・・一度フォルテとなると、これまた二三十年も使い古したドイツ製のピアノかと思う。つまりワイヤ(弦)の精密度が低いのであろう。したがって、味のない、固い音を発する。なにか、たがのゆるんだような、下帯のゆるんだような感じを与える低音、素気ない高音など、まだまだ信頼できる日の遠きを思わせる」というものです。

「下帯のゆるんだような音」という表現は、和服をほとんど着ない者にとって理解しがたいところですが、問題はミュージックワイヤの精度が悪いのではと指摘している点です。ミュージックワイヤ、フェルト、クロスは輸入品を用いたそうですから、開発中の国産ミュージックワイヤが用いられていたわけではありません。この批評に対し、9月に新社長となったばかりの川上源一は、自ら筆をとって反論するとともに、発奮してグランド・コンサートピアノのさらなる改良を進めていきます。このような具体的指摘があったということは、当時、輸入されていたドイツ製のミュージックワイヤも敗戦の影響が大きく、戦前のレベルに回復できていなかったのかもしれません。

その後、ヤマハのフルコンサートグランド・ピアノは改良が続けられ、現在はCFIIIS型として世界各国の音楽祭で公式ピアノとしても採用され、審査員や演奏者から極めて高い評価を得ています。そのあたりの経緯は、NHKの番組「プロジェクトX」にも採り上げられたので、皆さんよくご存じのことと思います。

ピアノの門出も大変でしたが、ワイヤの開発も大変でした。第2号試作品が、試作くずを30トン出しても、後述するようなミュージックワイヤ独特の規格を満足するワイヤができなかったのです。当時のピアノ線の生産量は、月20トン前後しかなかったのですから大変なことでした。あきらめそうになる技術スタッフを村山祐太郎は「このワイヤの完成はスズキのワイヤ全てのレベルアップにつながる。途中でやめるとはなにごとか」と叱咤激励し、再度、開発に挑ませます。その後、素材、熱処理条件、伸線条件を見直した百数十件の試作を行い、やっと開発に成功し、日本楽器の検査にも合格しました。

こうした苦労の末出来上がったミュージックワイヤですが、この頃の鈴木金属工業株式会社(現日鉄SGワイヤ株式会社)の財政は非常に苦しく、賃金を支払うお金さえ満足にない状態でした。ミュージックワイヤの素材にはスウェーデンの線材が最適だったのですが、輸入のための契約金もありませんでした。意を決した村山は日本楽器に赴き、外国線材購入のため前渡金として、100万円の手形を出してくれないかと頼みこみます。当然、答えは「ノー」でしたが、「なんとしても」という執念と誠意が伝わり、手形をきってもらうことができました。当時の100万円は相当な金額で、「あの時の川上社長のご厚意によるうれしさは、生涯忘れることができない」と村山は、その後、しばしば語っています。

国産のミュージックワイヤは1952年(昭和27年)より量産が始まり、当初は歩留まり50%でしたが、1954年(昭和29年)には95~98%に歩留まりを伸ばしています。スウェーデン線材はその後も使いつづけましたが、オール国産化を目指して、1966年(昭和41年)頃から八幡製鐵(現在の新日鐵住金)材の評価を始めました。十分なテストの後、1979年(昭和54年)にオール国産化しています。

日本人が外国製品に弱いのは今も昔も同じで、ミュージックワイヤ国産化の実現後も、「やはり外国製品の方が・・・」という声があり、2台の同型ピアノを用い、輸入品と国産品でのブラインドテストを行って、違いのないことを理解してもらったことがありました。その時のピアノが2000年(平成12年)まで残っていましたが、独身寮解体に伴い、残念ながら処分されてしまいました。

その後の調査で次のようなことがわかりました。ミュージックワイヤの国産化は戦時中の航空機プロペラで 関係のあった住友電工がいち早く1948年に製品化に挑んでいます。しかし、線径の1/2まで叩いてつぶす平打ち試験での不良率が高く、上記のようないきさつで1950年に鈴木金属工業製品に切り替りました。 (出典:住友電工百年史、住友電工100周年社史編集委員会編、1999)